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すごいでさね最後は人間性というか器の大きさが何千年も語られるのもかっこいいです
宦官「動物でわかったやん…」
春秋五覇の時代は面白いです誰を選ぶかは置いといても番外編としてでも絶対に闔閭と勾践は入れたいですよねーなんたってこの辺りの時代背景とか周辺人物がすごい人が多いし物語として面白いしそれぞれの功績もすごいですもの
春秋五覇は楽しみにしてました♪
荀息は献公との約束を守れなかった事の責任を取ろうと自害しましたね。荀息の立場を哀れんだ人が「玉につけた傷は磨けば消える。しかし言葉につけた傷は消す方法がない」と言ったそうです。
春秋戦国時代、興味深いですよね。個人的には宮城谷昌光さんの小説で読んだ管仲と孟嘗君あたりが好きです。諸子百家の動画もお願いします。
このチャンネル好きすぎ!毎日見てます!
文公はたしかに名君だったが後の晋公が代々短命だった事、驪姫の乱などのゴタゴタで主だった公族が少なく大臣達の権勢を抑えられなかった事が後々響いてくる事になる。
在位期間はたったの9年だけど在位期間中等の偉業が凄い・・・「恵」は暗君ってのは「国を恵ませた」のか「自分(の体を)恵ませた(奢侈や贅沢)」のかで決まるのかな。美諡でも倒した側によって付けられる場合はネガティブのイメージつけられる場合もあるからなぁガチであかん諡号だと霊・厲・煬だし・・・
大変勉強になりました。続編を期待しております。
晋の文公の話は横山光輝の史記で存じていましたが、即位してからの話はすっ飛ばしているので良かったです。妻(達)を呼び寄せたのはいいけど、無事だったのか勘繰るのはゲスかもしれませんね(笑)。
日本の『尊王攘夷』は当時天皇を超えるほどの権勢を誇りながら帝位を簒奪しなかった、藤原不比等から始まったといわれてる藤原不比等も晋の文公から倣ったのかもなあしかし同じく帝位を簒奪しなかった曹操が後世でまるで簒奪者のように描かれてるのは可哀想だな主に三国志演義と本当に簒奪した曹丕のせいだろうけど
5:54 秦の君主の口から出た台詞だとは思えない名言
恵の字がつく無能と言えば「米がなければ肉を食え」の晋の恵帝か…
春秋時代は春秋左氏伝が一番参考になりますよね。文章も内容も他の春秋の伝より優れていると思います。以後前漢までは左国史漢、後漢からは後漢書以降の二十四史、通史は資治通鑑と18史略を読み込んで下さい(鬼畜)
晋公夷吾は掛け値なしの人でなしでしたが、諡の「恵」には悪い意味はありません。もしかすると重耳(文公)本人がつけさせたのでしょうか。
宮城谷昌光著の「重耳」は読みごたえがあった。
勃鞮は寺人披、閹楚、伯楚、履鞮とも言われる。いわゆる宦官で、そのときの君主の為に忠誠を尽くすという、ある意味筋の通った人物。
モーニング掲載の東周英雄伝でも大好きなエピソードです~
春秋時代なら信陵君を紹介して欲しいです。人柄良く情報通、義理の兄弟のために戦ったのに最後は魏王に疎まれてヤケ酒くらって人格変わっちゃうとか人生にストーリー性あり過ぎる
信陵君は春秋時代ではなく戦国時代の人です。漢の高祖が彼の大ファンでしたね。
馬鹿な自分に誰か教えていただきたい。11:20~の「自分の軍を後ろに下げる」がなぜ気に入られる要素になるのか自分は戦での手柄は辞退します、って意思表示ですか?
①相手に一目置く⇒重耳は「三舎だけ兵を退きましょう」と言ったそうな。当時、軍隊が一日進んで宿泊することを一舎といった。従って、三舎とは三日の行軍の分だけ軍隊を退くということ。成王に敬意を払い、こちらから積極的に戦う意思はないということを示したのである。②手加減する⇒言うまでもなく、会戦では、戦場へ先に到着した側が何かにつけ有利。それに対して「三日分兵を退く」と言っているのだから、あえてこちらが不利になるのを引き受け、その上で、「それでも私は勝って見せますよ。どうですか?」と、自信のほどを示したのであろう。成王は大変な賢君で(終わりはよくなかったが)、名宰相の闘穀於菟(子文)を擁して勢力急拡大中だったが、一目見て重耳を妖怪と見抜き、自分同様の諸侯の礼でもてなした。ただ、子玉だけは我慢できず、これが城僕の会戦へとつながっていく。
やっぞ!ほらやっぞ!!
最初から重耳が後を継いでいたらどれだけ凄い国になれたのだろう。
最初のbgmすき
穆公様…何ていいひとなんだ?晋に領土の話を渡せないと言われたのにも関わらず助けるとは…
「恵」は中華では無能の意味なのですね。そう言われれば、楽毅を罷免した燕の恵王、前漢と西晋の恵帝・・納得。しかし、曹操が晋の文公を尊敬していたのは意外でした。息子の曹丕は漢を簒奪(禅譲という形を建前で作っていますが、どうみても・・)してますので。
曹操が作った『短歌行』という詩のなかで『周の文王』『斉の桓公』『晋の文公』の三人を讃えています✨(※ちなみに文公に対しては「ちょっと(周の)王様に対して無礼があったね」とダメ出しもしています。「お前が言うのかΣ(゚Д゚;)!」というやつですが笑笑) この三人は曹操以前の(神代除く)時代の王様ではベスト3と言えるんですが曹操の生きた時代当時からそうだった(文句なしのベスト3評価)のか逆に「曹操のような人達」に評価されたからその後評価が高まっていったのかはわかりません(私は無論前者だと思いますが、そういう評価が今日まで廃れず続いたのには曹操等のちの文人🖌の功績もあると思っています(^_^;)) ちなみに曹操の従弟の夏侯惇との会話では「ワシは周の文王になる」と話したとする一説が魏氏春秋に残っているそうですこのことから『自分の代では王朝交代まではやらない……が、ワシの息子の代では……わかるな?(笑)』ということだそうです((((;゚Д゚))))
劉邦の息子の恵帝は焚書を辞めさせたとされるそうですが(後は呂后による庶子の兄弟の毒殺を防いだり、劉邦の親征の際に留守任せられたり)・・・やっぱり西晋の恵帝が印象が悪すぎるか
劉邦の息子は暗君のイメージないよね
俺の世界史Chさんのチャイニーズヒストリーは、興味深く観ています。楽毅と晏子もとても、心に響く人物だと思います。宜しくお願い致します。
歴史は人の心を語る。
歴史上の人物は記録媒体から読み取った情報でしか考察できない制約がありますから、該当する人物がどういう人物かは分からない。すいません
燕の昭王が戦国で1番好きかも
舜を学べば即ち舜😊
斉の桓公・秦の穆公・晋の文公は、春秋時代の傑物。君子として凡庸だが、管仲・鮑叔が補佐し覇者へと飛躍した桓公。他国の民でさえ慈しみ、君子として優秀だった穆公。馬鹿がつく程正直で、人を惹きつけた文公。それぞれ絡みがあり、春秋時代の中では一番面白いですね。桓公は言わずと知れた管仲、穆公は百里奚、文公は狐偃が功臣筆頭でしょう。名君には、優れた補佐役がついています。「重耳の飛躍の陰に、狐偃あり」狐偃は重耳の母狄姫の一族(異民族)出身で、常に重耳に随身し、斉から出国する際には、桓公によって娶せられた重耳の妻(斉姜)と図り、重耳を酒に酔わせ馬車に乗せて脱出させてます。騙し打ちされて怒った重耳に対し「私を殺してあなたの大業が成るならば本望です」と堂々と主張しました。因みに、狐偃らが出立の相談を桑の木の下でしていた時、たまたま桑摘みの女が聞きつけ、斉姜に告げ口したが、斉姜は取り合わず、口外させない様に桑摘みの女を殺して、重耳に出立を促しているのです。形こそ違えども、後世の司馬仲達の妻である張春華の話の元ネタとなっています。『惚れた男の方が大事』という思考でなければ出来ない事です。性格優しい重耳には、女を味方にしてしまう魅力がありました。世の男とは違い、対等に接していたからだと想われます。秦を脱出して国主となった懐公は、狐偃の父狐突を重耳シンパと見做して処刑しています。懐公の妃は、懐公の置かれていた立場(秦との戦いで敗れ人質生活)を考慮すると、秦憎しで留め置かれたのでしょう。元々、晋との友好の証である故、重耳に再嫁する事には何の問題もありませんでした。後世の春秋作家らが問題ありと、色々とこじつけたのです。懐公の元妃で重耳の側室となった懐嬴は、辰嬴と呼ばれ重耳との間に子をもうけています。春秋左氏伝の記述を鵜呑みにするのは、偏った文飾が入っている故に、物事の本質から外れてしまうのです。それを踏まえた上で、事実だけを抽出すると、春秋時代は面白く見られます。
文公は狐偃が功臣筆頭でしょう⇒仰る通りですが、趙衰のことも忘れないであげてぇ~。
流浪の大器晩成
主さん、学者さんかなんか?
秦の ぼっこー とかいう人物。猛烈に怖いと思い直しましたわ。
秦は東の大国じゃなくて西の大国では(´・ω・`)?
古代中国はオモロイ現代中国は………
出涸らしだからしょうがねえよwww
つまらん突込みですが西の大国秦ですね。あと、何々公というのはその君主が亡くなってから贈られる名前なので、恵公として即位はあり得ません。
無能な奴ほど権力にしがみつく……あっ(察し)
ぼっこう!
国民が腐敗してる時指導者だけ優秀でもダメなんだよなお、これを令和でやるとロシア疑惑と言われてしまう模様
今回、少し突っ込みたいが幕府って天皇家を尊重してたっけ?してたら正平一統→後光厳天皇即位とか起きんやろ。
圧倒的に力があるのに簒奪しなかった
naka iti 個人的な見解を述べますと出来ないのか分かりませんが日本は基本的に簒奪しない文化です。代わりにトップをNo.2が有名無実にする事が慣習と行われてきました。鎌倉将軍家を傀儡にした北条家がいい例です。なので簒奪と尊皇は別だと思います。
すごいでさね
最後は人間性というか器の大きさが何千年も語られるのもかっこいいです
宦官「動物でわかったやん…」
春秋五覇の時代は面白いです
誰を選ぶかは置いといても番外編としてでも絶対に闔閭と勾践は入れたいですよねー
なんたってこの辺りの時代背景とか周辺人物がすごい人が多いし物語として面白いしそれぞれの功績もすごいですもの
春秋五覇は楽しみにしてました♪
荀息は献公との約束を守れなかった事の責任を取ろうと自害しましたね。荀息の立場を哀れんだ人が「玉につけた傷は磨けば消える。しかし言葉につけた傷は消す方法がない」と言ったそうです。
春秋戦国時代、興味深いですよね。個人的には宮城谷昌光さんの小説で読んだ管仲と孟嘗君あたりが好きです。
諸子百家の動画もお願いします。
このチャンネル好きすぎ!毎日見てます!
文公はたしかに名君だったが後の晋公が代々短命だった事、驪姫の乱などのゴタゴタで主だった公族が少なく大臣達の権勢を抑えられなかった事が後々響いてくる事になる。
在位期間はたったの9年だけど在位期間中等の偉業が凄い・・・
「恵」は暗君ってのは「国を恵ませた」のか「自分(の体を)恵ませた(奢侈や贅沢)」のかで決まるのかな。美諡でも倒した側によって付けられる場合はネガティブのイメージつけられる場合もあるからなぁ
ガチであかん諡号だと霊・厲・煬だし・・・
大変勉強になりました。続編を期待しております。
晋の文公の話は横山光輝の史記で存じていましたが、即位してからの話はすっ飛ばしているので良かったです。
妻(達)を呼び寄せたのはいいけど、無事だったのか勘繰るのはゲスかもしれませんね(笑)。
日本の『尊王攘夷』は当時天皇を超えるほどの権勢を誇りながら帝位を簒奪しなかった、藤原不比等から始まったといわれてる
藤原不比等も晋の文公から倣ったのかもなあ
しかし同じく帝位を簒奪しなかった曹操が後世でまるで簒奪者のように描かれてるのは可哀想だな
主に三国志演義と本当に簒奪した曹丕のせいだろうけど
5:54
秦の君主の口から出た台詞だとは思えない名言
恵の字がつく無能と言えば「米がなければ肉を食え」の晋の恵帝か…
春秋時代は春秋左氏伝が一番参考になりますよね。文章も内容も他の春秋の伝より優れていると思います。
以後前漢までは左国史漢、後漢からは後漢書以降の二十四史、通史は資治通鑑と18史略を読み込んで下さい(鬼畜)
晋公夷吾は掛け値なしの人でなしでしたが、諡の「恵」には悪い意味はありません。もしかすると重耳(文公)本人がつけさせたのでしょうか。
宮城谷昌光著の「重耳」は読みごたえがあった。
勃鞮は寺人披、閹楚、伯楚、履鞮とも言われる。いわゆる宦官で、そのときの君主の為に忠誠を尽くすという、ある意味筋の通った人物。
モーニング掲載の東周英雄伝でも大好きなエピソードです~
春秋時代なら信陵君を紹介して欲しいです。
人柄良く情報通、義理の兄弟のために戦ったのに最後は魏王に疎まれてヤケ酒くらって人格変わっちゃうとか人生にストーリー性あり過ぎる
信陵君は春秋時代ではなく戦国時代の人です。
漢の高祖が彼の大ファンでしたね。
馬鹿な自分に誰か教えていただきたい。
11:20~の「自分の軍を後ろに下げる」がなぜ気に入られる要素になるのか
自分は戦での手柄は辞退します、って意思表示ですか?
①相手に一目置く
⇒重耳は「三舎だけ兵を退きましょう」と言ったそうな。
当時、軍隊が一日進んで宿泊することを一舎といった。従って、三舎とは三日の行軍の分だけ軍隊を退くということ。
成王に敬意を払い、こちらから積極的に戦う意思はないということを示したのである。
②手加減する
⇒言うまでもなく、会戦では、戦場へ先に到着した側が何かにつけ有利。
それに対して「三日分兵を退く」と言っているのだから、あえてこちらが不利になるのを引き受け、その上で、
「それでも私は勝って見せますよ。どうですか?」
と、自信のほどを示したのであろう。
成王は大変な賢君で(終わりはよくなかったが)、名宰相の闘穀於菟(子文)を擁して勢力急拡大中だったが、一目見て重耳を妖怪と見抜き、自分同様の諸侯の礼でもてなした。
ただ、子玉だけは我慢できず、これが城僕の会戦へとつながっていく。
やっぞ!ほらやっぞ!!
最初から重耳が後を継いでいたらどれだけ凄い国になれたのだろう。
最初のbgmすき
穆公様…何ていいひとなんだ?晋に領土の話を渡せないと言われたのにも関わらず助けるとは…
「恵」は中華では無能の意味なのですね。そう言われれば、楽毅を罷免した燕の恵王、前漢と西晋の恵帝・・納得。しかし、曹操が晋の文公を尊敬していたのは意外でした。息子の曹丕は漢を簒奪(禅譲という形を建前で作っていますが、どうみても・・)してますので。
曹操が作った『短歌行』という詩のなかで
『周の文王』『斉の桓公』『晋の文公』の三人を讃えています✨(※ちなみに文公に対しては「ちょっと(周の)王様に対して無礼があったね」とダメ出しもしています。「お前が言うのかΣ(゚Д゚;)!」というやつですが笑笑)
この三人は曹操以前の(神代除く)時代の王様ではベスト3と言えるんですが
曹操の生きた時代当時からそうだった(文句なしのベスト3評価)のか
逆に「曹操のような人達」に評価されたからその後評価が高まっていったのかはわかりません(私は無論前者だと思いますが、そういう評価が今日まで廃れず続いたのには曹操等のちの文人🖌の功績もあると思っています(^_^;))
ちなみに曹操の従弟の夏侯惇との会話では「ワシは周の文王になる」と話したとする一説が魏氏春秋に残っているそうです
このことから『自分の代では王朝交代まではやらない……が、ワシの息子の代では……わかるな?(笑)』
ということだそうです((((;゚Д゚))))
劉邦の息子の恵帝は焚書を辞めさせたとされるそうですが(後は呂后による庶子の兄弟の毒殺を防いだり、劉邦の親征の際に留守任せられたり)・・・やっぱり西晋の恵帝が印象が悪すぎるか
劉邦の息子は暗君のイメージないよね
俺の世界史Chさんのチャイニーズヒストリーは、興味深く観ています。
楽毅と晏子もとても、心に響く人物だと思います。
宜しくお願い致します。
歴史は人の心を語る。
歴史上の人物は記録媒体から読み取った情報でしか考察できない制約がありますから、該当する人物がどういう人物かは分からない。すいません
燕の昭王が戦国で1番好きかも
舜を学べば即ち舜😊
斉の桓公・秦の穆公・晋の文公は、春秋時代の傑物。君子として凡庸だが、管仲・鮑叔が補佐し覇者へと飛躍した桓公。他国の民でさえ慈しみ、君子として優秀だった穆公。馬鹿がつく程正直で、人を惹きつけた文公。それぞれ絡みがあり、春秋時代の中では一番面白いですね。
桓公は言わずと知れた管仲、穆公は百里奚、文公は狐偃が功臣筆頭でしょう。名君には、優れた補佐役がついています。
「重耳の飛躍の陰に、狐偃あり」
狐偃は重耳の母狄姫の一族(異民族)出身で、常に重耳に随身し、斉から出国する際には、桓公によって娶せられた重耳の妻(斉姜)と図り、重耳を酒に酔わせ馬車に乗せて脱出させてます。騙し打ちされて怒った重耳に対し「私を殺してあなたの大業が成るならば本望です」と堂々と主張しました。
因みに、狐偃らが出立の相談を桑の木の下でしていた時、たまたま桑摘みの女が聞きつけ、斉姜に告げ口したが、斉姜は取り合わず、口外させない様に桑摘みの女を殺して、重耳に出立を促しているのです。形こそ違えども、後世の司馬仲達の妻である張春華の話の元ネタとなっています。
『惚れた男の方が大事』という思考でなければ出来ない事です。性格優しい重耳には、女を味方にしてしまう魅力がありました。世の男とは違い、対等に接していたからだと想われます。
秦を脱出して国主となった懐公は、狐偃の父狐突を重耳シンパと見做して処刑しています。懐公の妃は、懐公の置かれていた立場(秦との戦いで敗れ人質生活)を考慮すると、秦憎しで留め置かれたのでしょう。元々、晋との友好の証である故、重耳に再嫁する事には何の問題もありませんでした。後世の春秋作家らが問題ありと、色々とこじつけたのです。懐公の元妃で重耳の側室となった懐嬴は、辰嬴と呼ばれ重耳との間に子をもうけています。
春秋左氏伝の記述を鵜呑みにするのは、偏った文飾が入っている故に、物事の本質から外れてしまうのです。それを踏まえた上で、事実だけを抽出すると、春秋時代は面白く見られます。
文公は狐偃が功臣筆頭でしょう
⇒仰る通りですが、趙衰のことも忘れないであげてぇ~。
流浪の大器晩成
主さん、学者さんかなんか?
秦の ぼっこー とかいう人物。猛烈に怖いと思い直しましたわ。
秦は東の大国じゃなくて西の大国では(´・ω・`)?
古代中国はオモロイ
現代中国は………
出涸らしだからしょうがねえよwww
つまらん突込みですが西の大国秦ですね。あと、何々公というのはその君主が亡くなってから贈られる名前なので、恵公として即位はあり得ません。
無能な奴ほど権力にしがみつく……
あっ(察し)
ぼっこう!
国民が腐敗してる時指導者だけ優秀でもダメなんだよ
なお、これを令和でやるとロシア疑惑と言われてしまう模様
今回、少し突っ込みたいが幕府って天皇家を尊重してたっけ?してたら正平一統→後光厳天皇即位とか起きんやろ。
圧倒的に力があるのに簒奪しなかった
naka iti 個人的な見解を述べますと出来ないのか分かりませんが日本は基本的に簒奪しない文化です。代わりにトップをNo.2が有名無実にする事が慣習と行われてきました。鎌倉将軍家を傀儡にした北条家がいい例です。なので簒奪と尊皇は別だと思います。